はじめての洋行
ヨーロッパで暮らすために日本を飛び出す
風がやんだら
沖まで船を出そう
名もない島が
見えるかもしれない…
ユーミンの「瞳を閉じて」という曲を聴くと今でも、期待と不安とが入り交じった切ない感覚がよみがえる。
その時私は、それまでの生活にひとつの区切りをつけ、約一年間をイギリスを中心としたヨーロッパで過ごすべく、日本を旅立とうとしていた。
その途上、横浜からロシアへと向かう船のデッキの上で、この曲ばかり何度も何度も繰り返し聴いていたのだ。
期待と不安。
いやむしろ期待より不安の方がはるかに大きかった。
これから先いったいどのような世界が私を待っているのか…
その新しい世界は、果たして私をこころよく受け入れてくれるのだろうか?
私は、船の最後部のデッキに腰掛けて、ともすれば押しつぶされそうになる不安に抗(あらが)うような思いで、ヘッドホンから流れてくるこの曲にいつまでも耳を傾けていた。
白くあわ立つ航跡の先、はるか水平線のかなたに、別れたばかりの家族や親しい友人たちの姿が次々と浮かんでは消えていった…
あえて飛行機の旅を避ける
最初の目的地であるアイルランドのダブリンまでは、シベリア鉄道と、船やバスだけを乗り継いで、約一ヶ月かけてたどり着くつもりでいた。
飛行機を使えば、わずか一日かそこらなのに、こんな酔狂ともいえる旅を思い立ったのには若干の理由があった。
これは私にとって初めての海外生活、そして初めてのヨーロッパ行きである。
かつて、長い間の鎖国状態から解放されたばかりの明治期の留学生たちが、西洋の先進的な文明を吸収すべく万里の波涛をこえてヨーロッパへと渡ったその時の「気概」とでもいうものを、せめて何百分の一でもいいから味わってみたい、という思いが私の中にあったのである。
考えてみれば大型旅客機の登場により、空の旅が大衆化され、それまで船で一ヶ月以上は要したヨーロッパへの道のりが、わずか十数時間にまで短縮されたのは、ほんのここ数十年のことにすぎない。
ついこの間までヨーロッパは、それなりの覚悟(特にお金と時間)なしには行くことが出来ない、遠いかなたの憧れの国であったのだ。
あえてヒコーキの旅を避け、船と列車を選択した、私の「洋行」も決して楽なものではなかった。
シベリア鉄道に揺られた一週間は、風呂に入ることはもちろん洗髪もできず全身が痒くて仕方がなかった。
ドイツでは、ひどい風で寝込んだ。
フランスのマルセイユでは、日本から持ってきた荷物をすべて丸ごと騙(だま)し盗られた。
しかし、ユーラシア大陸を東から西へと旅を続ける間、風景が徐々に移り変わっていくにつれて、刻々と変化する自分の胸中を、私はたっぷりと味わうことができたのである。
ロンドンで漱石のことを思う
イギリス滞在中、ロンドンで地下鉄に乗るとき、ふと漱石の事が脳裏をよぎることがあった。
世界で初めてつくられた、このロンドンの地下鉄に、当時留学中であった漱石も乗っていた…ということを思うと、何だかとても不思議な感覚に襲われた。
夏目漱石は文部省から派遣された英語研究の留学生としてロンドンで二年を過ごした。
漱石が「我輩は猫である」で、文壇に華々しくデビューする以前のことである。
時はまさにビクトリア女王の君臨する大英帝国の全盛期。
世界初の地下鉄が走ったのも漱石が留学したその年のことであった。
しかし漱石にとっては、イギリスは決して心地よい場所ではなかったようだ。
彼は留学中に精神を病んだ。
「漱石が発狂した」という知らせが本国に届き、漱石を保護して送還する手続きが取られようとした。
昔の留学生はたいへんだ。
圧倒的な西洋近代文明の圧力。
おまけに背中には重く「国家」というものがのしかかっていた。
きっと漱石は、どんよりとした鉛色のロンドンの空の下を、今にも押しつぶされそうな思いでふらふらと歩いていたことだろう…
そんな漱石の時代とはまるで対照的に、私のイギリス「遊学」は実にのどかで楽しいものだった。
「国」や「家」からの「期待」や「束縛」があるわけではない。
今は、個人の自由が最大限に尊重される、実に幸せな時代なのだ。
私はシュタイナー思想のコミュニティにボランティアとして滞在し、知的ハンディを持つ人たちと共に毎日、畑で汗を流した。
日が暮れると、運河沿いの散歩道を辿った先にある小さなパブで仲間たちとハーフパイントのエールビールで一日の疲れを癒した。
日本を離れたことで、私はそれまで自分を縛っていた様々なものから解放されて、何か大きな自由を手にしたような気がした。
今でも瞳を閉じると、なだらかに波打つイングランドの美しい緑の丘が胸の中いっぱいに広がるような気がする。