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2022-01-29

画家の生涯

私自身が絵描きということもあってか、さまざまな「画家の生涯」には少なからず関心をもっている。

日本が世界に誇る浮世絵師、葛飾北斎野代表作「富嶽三十六景」が北斎72歳の時に描かれたことを知ったときはさすがに驚いた。

芸術家としての絶頂期を70代で迎えるとは、なんとイキな人生であることかと思った。

彼は生涯にわたって数え切れないほどの引越しを繰り返し、ペンネームも幾たびか変えた。

そんな過去の自分にとらわれぬ生き方が、私はとっても好きだ。

 

北斎とは対照的にイタリアのシュールリアリスト、キリコの生涯のピークはずいぶん早くにやって来た。

キリコは90歳まで生きたのにもかかわらず、教科書や美術館で目にする彼の代表作のすべては意外にも20代に描かれたものばかりである。

後半生の作品は写真で見ただけでも、いわゆるキリコ風とは程遠い、実に凡庸で面白みのないものだ。

 

ゴッホとゴーガンの出会いは、おそらく近代絵画史上でもっともドラマチックな出来事のひとつであろう。

牧師の道を捨てた後27歳で画家を志したゴッホと、34歳にして突然株式仲買人という安定した地位を投げ打って絵画の魔力に取り付かれたゴーガンとが出会い、二人はアルルで共同生活を始める。

しかし二つのあまりにも強烈な魂のせめぎ合いは互いの生活にすぐに破綻をもたらす。

ある夕方ゴッホは、散歩に出かけたゴーガンの後ろからカミソリで切りつけようとする。

ゴーガンににらみ返されて失敗すると、ゴッホは部屋に戻り、そのカミソリで今度は自分の片耳を殺ぎ落としてしまう。

ゴッホはこの事件の後、精神病院に入院、そして約一年後37歳でピストル自殺。一方のゴーガンは妻子を捨てて、はるか太平洋に浮かぶタヒチ島へと旅立っていく。

私は、かつて印象派の画家たちを魅了した眩しい太陽を感じたくて、南仏アルルを訪れたことがある。私の泊まったホテルはその名も「ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ」、そしてこのホテルは、例の耳きり事件のあった広場に面していた。

私は、ゴーガンの背中をカミソリ片手に息せわしく追いかけるゴッホの姿を、この広場の中に何度も思い描いてみたものだ。

 

ウィーン世紀末を代表する画家クリムトが活躍していた頃、ウィーンの美術学校の入試合格を目指す二人の若者がいた。

エゴン・シーレという名の一人は合格してクリムトとともにこの時代を代表する画家となるが、もう一人の方は二年続けて受験に失敗、深い失意を抱いてウィーンの街を後にする。

その後彼は画家になる道を捨て、急速に政治の世界に吸い込まれていった。彼の名はアドルフ・ヒットラー。

もし彼がウィーンの美術学校に合格していたら、20世紀の歴史は随分違うものになっていただろう。

 

今、現代美術の閉塞状態を側面から打ち破るものとして、障害者アートなどを始めとする、「専門的な教育を受けていない者によるアート」が注目されている。

たとえデッサン力や写実力が未熟でも、そこには見るものの心を打つパッション(情熱)がある。絵の学校など出ていなくても、自分自身をそのまます素直に表現した時、その人は芸術家になるのだと思う。

あのルソーだって本職は税務署の職員で日曜画家として筆をとっていたのだし、モーゼスおばさんにいたっては70歳を過ぎてから絵を始めたのだ。

私に絵を描くパッションをもたらしたのは、一年余りにおよぶヨーロッパ生活経験だった。

このとき私は、初めてヨーロッパというものに出会い、恋をした。

そしてヨーロッパで過ごした美しい日々は、その後私の胸の中で静かに熟成され、歳月を重ねるにしたがって実にまろやかな芳香をはなつまでになった、

この心の中の大切な宝物を形として外に表していくことが、今の私の創作の原点である。

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