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2019-06-25

27歳の台湾一周旅のこと、一生描き続けようと誓ったこと

旅で自分を見つめ直す

時々ふらりとひとりで旅に出る。

見知らぬ土地をあてもなくさまよい、ふだんとはまったく違った時間の流れの中に自分を置いてみる。

旅をしている最中は、朝、目を覚ましたときから、今日一日どこへ行こうと、何をやろうと自由だ。

ここには自分を知るものは誰もいない。

自分を縛っていたさまざまな肩書きやら、しがらみやらが消え、私はより本質に近い私自身になる。

目は、常に異国の珍しい風物を追っているようだが、心の網膜に映るのは実は自分の心だったりする。

旅とは、日常性から離れることによって、自分と自分をとりまく日常の世界をもう一度外から見つめなおす作業だ、と思う。

台湾一周旅

27歳の時の台湾の旅は、私にとって忘れがたいものであった。

仕事にも生活にも満足していた。

職場の仲間たちと夜遅くまで付き合っても、いっこうに苦にならなかった。

学生の頃、趣味で始めた絵だったが、いつの間にか描くのを忘れ、画材道具はもう2年以上押し入れの奥にしまったままになっていた。

そんな時、ふと休みがもらえ、久しぶりにひとりで旅に出た。

台湾島を3週間かけて、時計周りに一周する気ままな旅だ。

台湾には温泉が多い。

列車に揺られて山間の温泉にたどり着くと、そこに何日間も逗留し、地元の人たちと適当に仲良くなりながら楽しく過ごした。

アイデンティティクライシス

ところが旅が進むにつれて、私はだんだんある種の恐怖にとらわれて行った。

自分が一体何者なのか、これから先何をして生きていけばいいのか、まったくわからなくなってしまう恐怖である。

旅に出ることによって、自分を外側から束縛し定義していたさまざまな日常性から解き放たれた。

そしてまったく見知らぬ土地に突然ポーンと自分を置いてみた時、自分が実はとってもカラッポな存在であることがわかったのである。

今までこれが自分だと思っていた、さまざまなもの、

たとえば自分はどこどこの会社に所属する誰だとか、誰の夫で誰の親だとかいったもの、、、

これらが実は一種の幻影にすぎず、それをすべて取り除いて見たら、自分の中にポッカリ穴だけがあいていた、といった具合だ。

もしかするとその時私は、旅で「素(す)の自分」と出会うことによって、いわゆるアイデンティティクライシスに陥ったのかもしれない。

朝、目を覚ましても、何時に何をすべきという一日の予定はまったくない。

自分の行くべき場所もなければ、やるべき仕事もない。

自らを束縛する一切から解き放たれた時、自分の中に、とてつもなく空虚で真っ暗な底なしの穴があいている事に初めて気がついた、というわけだ。

台東、知本温泉、墾丁、台南、、、

私は台湾をあちこち移動しつつも、ろくすっぽ観光もせず、次第に宿に閉じこもってひとり悶々とするようになった。

一日中ほとんど外出しない私を、宿の主は不審な目で見た。

「やばい、この心にポッカリあいた穴を、今のうちに何とか埋めておかないと…」

旅から帰った後、私は突然2年ぶりに絵筆を取り出した。

まるで心にあいた穴を塗りつぶすかのような勢いで絵を描き始めたのだ。

その時、とにかくこの先何があっても、絵だけは一生描きつづけていこうと誓った。

自分にとって、それがいちばん自分の本質に近いところにあるもののような気がしたからである。

旅は、外の世界と自分自身に関して、新鮮な発見をもたらしてくれる。

そして旅から帰ってくると、これまでうんざりしていた退屈な日常が新しい価値をもって輝いていることに気づく。

旅を通して自分が生まれ変わり、日常の価値を再認識するのだと思う。

私は、あの27歳の時の台湾の旅を一生忘れないだろう。

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