青春のパリ
もうかなり遠い昔のことになるが、私は1990年の正月をパリの安宿の地下にある一室で迎えた。
時計が0時をまわった瞬間、新しい年を祝う人々の歓声が、窓のない地下牢のような部屋のぶ厚い壁を通して伝わってきた。
私の方はというと、とても新年を祝うような気分ではなく、ベッドの上で布団にくるまり、人々の乱痴気騒ぎをうらやましく思っていた。
それまでの仕事と生活にいったん区切りをつけ、日本を飛び出してはや3ヶ月が経っていた。
年が改まると、イギリスでの新しい生活が待っている。
前途に対する大いなる不安とささやかな希望、そして失った日本での生活への未練などが複雑に交錯した実に重苦しい気持ちだった。
画業に関しても、写実を追及しようとする一方で、妙に抽象風の絵を描いたりと、自らのテーマとスタイルがいっこうに確立できずもがき苦しんでいた。
私は、オルセーやルーブル、オランジェリー、ポンピドゥーといったパリにあまたある美術館に連日足を運び、それまで教科書でしか目にすることがなかった名画の数々をなめるように眺めた。
あるいはセーヌ河畔やモンマルトルの路上画家の筆さばきを冷やかしに出かけたりもした。
パリはそうした毎日を送るには格好の場所に思えた。
かつてこの街で青春時代を過ごした画家たちの足跡も辿った。
ユトリロが描いたコタン小路を探してモンマルトル界隈をさまよったり、ピカソやキスリングやフジタらの面影を求めて、モンパルナスのカフェ、ラ・クーポールを訪れたりもした。
どうやら私は、貧しくまだ無名であったこうした画家たちの青春と自らの境遇とを重ね合わせていたようだ。
あれから、もうかれこれ30年が経とうとしている。
今、私は決して貧しくはないが、いまだに無名だ。
そんな自らの青春時代のパリを思い出しながらこんな絵を一枚描いてみた。