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2019-07-23

インド旅行記 ヒマラヤの麓ムスリーでの滞在

ヒマラヤの麓、ムスリーの町

もうずいぶん前の話になるが、ヒマラヤのふもと、インドのムスリーという町で1週間ほど滞在し、濃密な時間を過ごしたことがある。

首都デリーの北西二百キロ、ヒンドスタン平野が途切れると、いきなり大地が大きく隆起し、ヒマラヤ山脈が始まる。

その最初の山並み、標高二千メートルの尾根に沿ってかろうじてへばりつくようにして広がっているのがムスリーの町だ。

まわりを深い山々に抱かれ、高台に登れば、かなたに白銀に輝くヒマラヤ山脈を望むことができる。

この町は、植民地時代にイギリスによって開発され、今では、ダージリンやシムラーと並び、インドの三大避暑地とされている。

空気はどこまでも清涼として澄み、人々の表情は素朴で暖かい。

私の泊まった宿はこの町の高台にあり、部屋のベランダからは家々の屋根と地元の人たちの暮らしが、まるで手に取るように眺められた。

町には、牛や山羊はもちろんのこと、いたるところに猿が群れをなして住みついていて、あちこちの屋根を曲芸師のように飛び回ってはいたずらをしている。

私もある朝、音もなくベランダに侵入した一匹の猿に、朝食用に用意しておいたトマトとキュウリを持っていかれた。

私はすっかりこの町が気に入ってしまい、結局ズルズルと一週間も滞在することになった。

…と、いっても、別段これといって何をするわけでもない。

今日はこちらの谷、明日はあちらの谷と、毎日のようにトレッキングを楽しんでいただけだ。

そんなふうにして私が訪れた谷のひとつに、チベット人の住むハッピーバレイという村があった。

ハッピーバレイは、亡命チベット人の住む村

ハッピーバレイは、本国を追われた亡命チベット人たちが静かに暮らす、「幸福の谷」という名のとおりの、平和で穏やかな村である。

実は私がムスリーの町を選んだ理由のひとつに、この村の存在があったのだ。

チベット人の文化、特に死生観には以前より強くひかれるものがあった。

彼らは今でも人が亡くなると、切り刻んだ遺体を岩場に放置し、鳥に喰わせる「鳥葬」という奇異な風習を続けている。

「チベット死者の書」には、肉体を離れた魂が再びこの世に生まれ変わってくるまでの道のりが克明につづれれている。

彼らにとってはどうやら「輪廻転生」は当たり前の摂理で、高僧が亡くなると映画「リトルブッダ」(1993年公開、キアヌ・リーブス主演)に描かれたような「生まれ変わり」探しが実際に今でも行われている。

さて、この小さな村の中心には「聖なる丘」と呼ばれる、谷間から天空に向かって突き立っているような岩山がある。

頂上には仏塔が築かれ、タルチョという経文が書かれた五色の旗が風にひらめいている。

丘の両側には深い谷が刻まれ、谷底からは巨大な山塊がまるで屏風のようにそびえている。

私は、空を飛ぶ鳥の視線から、このダイナミックな風景を眺めていた。

しばらくすると、三人の若いチベット青年たちが丘を登ってきた。

彼らはこの村にあるチベット人学校で学んでいる学生だった。

私たちはすぐに打ち解けあった。

しかし温和な顔立ちとはうらはらに彼らの口からは、失われた祖国チベットに対する熱い言葉がほとばしるようにあふれ、私は少々面食らった。

1959年に祖国を中国の占領下に置かれて以来、彼らはここインドで難民としての生活を余儀なくされているのだ。

そして彼らの宗教的・政治的リーダーであるダライラマ14世は、ここから少し離れたダラムサラーで亡命政府をつくっている。

かつてのチベットの首都ラサへの思い

私がかつて彼らの祖国の首都ラサを訪れたことを話すと、彼らの目は途端に輝きを増した。

「ラサは一体どんな所か?」

身を乗り出すようにして聞く彼らに、私は答えた。

「ここと同じように、静かで平和な町だよ」

…と。

数日後、私はもう一度この「聖なる丘」に登った。

今度はチベット人の僧侶たちがやって来て、私の前で炎を焚き祈りを捧げはじめた。

煙がゆらゆらと天に舞い上がり、静かに青空に吸い込まれていった。

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