ヒマラヤ ランタン谷トレッキング
シャブルの村
少年の投げた紙飛行機がゆるやかな弧を描いて、谷間に広がる段々畑のひとつにすいこまれるようにして消えていった。
紙飛行機の滞空時間があまりに長かったので、私は一瞬、「スローモーションでも見ているのではないか?」と疑ったくらいだ。
しばらくして今度は、落ちた紙飛行機を探す二人の子供の姿が麦畑の中にどんどん小さくなっていくのが見えた。
私は、そんな一部始終を、ロッジのテラスの上から眺めながら、
「たったひとつの紙飛行機でこれだけ無心になって遊べる子供を見たのは、いったい何年ぶりだろう…」
と、ぼんやり考えていた。
ここはヒマラヤの山あいにある、チベット人の住むシャブルという小さな村である。
私の泊まるロッジのテラスからは、深い谷と、その背後に屹立する巨大な岩峰とが、パノラマのように見渡すことができた。
夕げの時間ともなると、尾根ぞいに固まる家々の屋根の上から次々と煙が立ち登った。
ヒマラヤの奥地の村はどこもそうだが、電気はもちろんのことガスも水道もまったく無く、人びとはいまだに薪で火を焚いているのであった。
しかし私は、こうした貧しい村を泊まり歩く、2週間近いトレッキングをほとんど終えた今、あらためて夜の闇がどんなに深いかということ、そして夜空の星や月がどんなに人の心を和ませてくれるかということを知ったような気がしていた。
私は、この村に漂っている、さっき少年が投げた紙飛行機の飛行曲線のようにゆるやかな時間の流れに身を浸すようにして、昨日までの山歩きの疲れを癒そうとしていた。
ネパールのカトマンズからヒマラヤトレッキングへ
ヒマラヤトレッキングは、まずカトマンズの猥雑な町を一日中飛び回って、許可証(トレッキングパーミッション)を取得したり、寝袋・ダウンジャケットといった装備一式をレンタルすることから始まった。
翌日、屋根の上まで人があふれているスシ詰め状態のオンボロバスに10時間もガタコト揺られ、ふらふらになりながらヒマラヤのふもとの村ドゥンチェに辿り着いた。
次の日、ドゥンチェの村から、ガイドもポーターも雇わず、重いリュックを背負ってひとり山中へと分け入っていった。
目もくらむような深い谷や激流渦巻く沢をいくつも越えた。
旅芸人の巡業に沸き立つ谷あいの小さな村。
幾重にも折り重なる美しい段々畑。
「ナマステ!」とあどけない笑顔を返す、頬を真っ赤に染めた子供たち…
どれもこれも遠い昔にどこかで出会ったような懐かしい風景ばかりだった。
いよいよヒマラヤの高所へ
4日目。 森林限界を超えたのか、いつしかまわりは緑がなくなり、広漠としたチベット的な風景となっていった。
5日目。 ランタン谷の最奥の村、キャンジンゴンパ着。 ここはもう高度3,800メートルである。
6日目。近くの4,000メートルを超える岩山に登る。高山病で頭がガンガン痛む。
7日目。さらに奥の5,000メートル近い山を目指す。
あまりの息苦しさに、途中何度も仰向けに倒れて天を仰ぐ。
4時間ほど苦闘してついに頂上着。
この山域の最高峰、ランタンリルン7,200メートルの銀嶺が眼前にそびえ立っている。
360°どこを見渡しても、岩と氷だけの世界。
完璧なる静寂。
人を寄せ付けない峻厳なる嶺。
まるで、この世の果てを思わせるような凄まじい景観に身震いをするほどの戦慄をおぼえ、逃げるようにして山を下りる。
また高山病…
チベット世界への憧れ
いつの頃からだろうか、私は「チベット世界」に憧れを抱くようになった。
荒涼とした岩山の上に、抜けるように真っ青な空を背景としてタルチョ(経文を書いた五色の旗)がはためいているのを見ると…
あるいは薄暗いゴンパ(寺院)の中で朗々と響き渡る読経のリズムに全身を包まれると…
自分の胸の中にざわざわと微かなさざ波がたち起こるのがわかる。
そんな時いつも私は、ひとり勝手な想像をめぐらせるのである。
あの「チベット死者の書」(バルドェ・トェ・ドル)が言うように、本当に人は何回もこの世に生を得て生まれ変わりを繰り返しているものだとしたら…
もしかすると自分は、遠い遠い何百年か前のどこかの時代に、このチベットの地で生きていたことがあったのかも知れない…と。