アウシュビッツ収容所のこと アンネのこと
アウシュビッツ収容所で一晩過ごす
1993年4月22日、私は眠れない夜を過ごしていた。
眠れようはずがない。
ここはアウシュビッツ収容所内にある簡易宿泊所、そして私の枕元にはフランクルの「夜と霧」が置いてあるのだ。
昼間、記念館で見た、おびただしい数のめがねや義足、髪の毛の山や人間の脂肪からつくられた石鹸などが無言の叫びとなって、眠りにおちようとする私をふたたび覚醒へと引きずり戻していた。
それはまるで闇の底から、抹殺された数百万のユダヤ人のうめき声が聞こえてくるような恐ろしい夜だった。
アンネの家からアウシュビッツへ
それより以前に、アムステルダムにあるアンネ・フランクの家を訪れたことがある。
日記を読むだけでなく、実際にアンネが過ごした隠れ家を訪れたことで、彼女の存在がより身近なものとして感じられるようになった。
その時から、アンネも経験したアウシュビッツ強制収容所というものをいつかは見ておかなければならないと思っていた。
アウシュビッツへの道のり
しかしアウシュビッツまでの道のりは決して楽なものではなかった。
当時は、まだ世界遺産登録されておらず、今のように便利なツアーなどなかったからだ。
私は、収容所があるポーランドめざして、まずパリから旧東ドイツのライプチヒまで列車で移動し、さらにライプチヒから夜行列車に乗り込んだ。
しかしその夜行列車は、夜がふけるのにしたがって身を切るように寒くなり、毛布さえなかった私は、ポーランド人に挟まれて座席の上で猫のように丸くなって眠らなければならなかった。
ポーランドのクラクフから列車を乗り継いで、ようやくアウシュビッツ収容所のあるオシフェンチムという小さな町に辿り着いた。
アウシュビッツを歩いてアンネのことを思う
アウシュビッツは記念館として整備されている第一収容所と、そこから3キロはなれたところにあるさらに巨大な第二収容所(ビルケナウ)とに分かれていた。
第一収容所こそ大型観光バスが乗り入れたりしてにぎやかだが、第二収容所の方は鉄条網に囲われた、雑草がのび放題の広大な敷地の中に今やほとんど廃虚と化したバラックやガス室などの建物が立ち並んでいるだけで、訪れる人の姿もまばらであった。
敷地の外から続いていた長い線路の終着点がここであった。
ヨーロッパ各地から貨物列車で運ばれたユダヤ人達はまさにこの場所で降ろされて、バラック(収容棟)に行く者と、即ガス室送りになる者とに「選別」されたのである。
バラックのうちのひとつに入ってみた。
木製の粗末なベッドが三段になって両側にずらりと並んでいた。
捕虜たちは、毛布もなく寝返りも満足にできない状態で家畜のようにここに詰め込まれたのであろう。
壁には汗や血の染み、爪などで引っ掻いたあと。
コンクリートに丸い穴があいただけの粗末なトイレ。
かつて百数十棟はあったとされるバラックの群れの向こうには、ところどころ破壊されがれきと化した、1500人以上収容可能なガス室があった。
天井には有毒ガスのシャワーを浴びせるための無数の穴。
そしてガス室の脇には、大量抹殺した死体をここで次々と焼いたとおもわれる焼却炉がいくつも、まだ十分生々しい状態で放置してあった。
私は「殺人工場」の廃虚の中を歩きながら、ここにアンネ・フランクの姿を思い描こうとしていた。
「アンネの日記」はある日をもって突然中断している。
密告により隠れ家が発覚し、彼女たちはここアウシュビッツへと送られたのである。
アンネも腕に番号の刺青をされ、アンネ・フランクという「名前」を奪われ、単なる「番号」として扱われたのであろうか。
日記からうかがい知る事のできる、この驚くほど早熟で多感な少女、恋する喜びを知り大人の女へと成長しはじめたばかりの少女、そして隠れ家生活の困難にも負けず美しい理想を抱き続けた一人の少女が、この「殺人工場」の中で一体何を考え、どのようにすごしたのだろうか?
あの隠れ家の屋根裏部屋の小さな窓から見える青空に明日の希望を見出したように、このような地獄のような状況の中でさえ、アンネは気高い理想を忘れず、美しく生きようとしたのだろうか?
ガス室の裏手にまわると、遺体を焼いた後の灰などを埋めた広い沼地があった。
ユダヤのシンボル、聖ダビデの星が葦の茂みの中にまるで墓碑のようにひっそりと立っている。
私はその沼地の一角にしゃがんで水底をすくってみた。
小さな無数の白い骨片が、水の中で静かにゆらめくのが見えた。